耳2
ピアノを習い始めたのは4つの時だった。何か習い事をさせようと思った母が私の短い指をした手を見て、昔音楽の先生がお世辞にも格好の良いとは言えない手をした男の子に『あなたピアノを弾いたらうまくなるのに』と言っていたのを思い出して、ピアノを弾かせてみようかなと思ったそうである。それから街の音楽教室に通い始めたのだが、当たり前の話、子供一人でピアノを練習するわけはなく、先生のところへは週1度丸をもらいに行くだけで、レッスン時間はものの5分だったため、それ以外の日は母が私をピアノの前に座らせ、根気強く譜面を手で指差しながら、全体を一度も間違えずに弾けるようになるまで、何度も弾かせた。また母が『こういう風に弾いてごらんなさい』と歌ってみせると次第にピアノが歌うようになったという。非音楽的な演奏では満足できなかったらしい。 その母の根気強さと耳の良さが無かったら、ただ弾くだけ、音を出すだけの音楽的ではない弾き方をするようになっていたかも知れない。母は実際にピアノは弾けないが、元々クラシック音楽やタンゴ、ジャズなど音楽が大好きで、よく聴いていたようである。私も小さい頃その音楽が流れるスピーカーの側で昼寝をしていた。絵を描いている母の隣で音楽が流れ、とても幸福な気分で眠っていたのを覚えている。
人間の感受性というものは、3歳までに決まるらしい。よくその頃庭で泥んこになって遊ぶのが得意だった。ベートーヴェンを弾いていると不思議とその頃に感じていたものと同じものを感じる事がある。何だかとても落ち着くのである。
私のピアノの成長とともに、母の耳も同じように進化を遂げている。最近は音が響くか響かないかが良くわかるようになっている。本当に聴くという事はすごい事である。前にも述べたが、ピアノを演奏している人の耳には様々なレベルがあると思う。それは自分の演奏の技術に比例して耳が成長するためである。一流の演奏は理解できるが、それと自分の技術との間の領域に関しては耳がついていってはいないのである。この様々な耳を持って、意地悪く批評する人達がいるので困る。
しかし専門家にとっては、色々なレベル分けができる耳が必要であるが、音楽を聴くという事は、ただ心で聴くというか素直な気持ちで聴いて、『いいなあ』と思えば良いのである。素晴らしい演奏はほとんどの人がその好みとは別に判るものだからである。
(2010/6/28)