巨匠とは

 

「すべて偉大なものは単純である」、ドイツの指揮者フルトヴェングラーは自身の著書『音と言葉』の中でこの箴言についてこう語っています。『この箴言は芸術家の為のものである』と。ここに全ての答えが要約されているのではないでしょうか。この『単純』という事は、複雑多岐にわたる芸術作品を全体から見渡した場合、すべてを見通し、正しく全体をつかむことができるという事です。巨匠にはその単純化する才能が生まれつき備わっているのだと言えます。別の言葉に置き換えるならば、『スケールが大きい 』とも言えるでしょう。身体的能力、たゆまない努力、並外れた音楽性など、巨匠になるための資質をあげたらきりがありません。

 

一口にクラシックの音楽家と言ってもこの世には無数のレベルが存在していることは、『耳』でも述べた通りです。このことは芸術全般に関わらず、スポーツ、他の様々な分野においても言える事ではないでしょうか。なぜ無数のレベルが存在するのでしょう?『無駄なものを廃し、単純化する作業』。その『無駄なもの』が消えていない演奏が無数にあるという事です。例えば、ポリフォニー=多声音楽ーなのに全部の声部を同じ音量で弾いてしまう。そうするとメロディーは伴奏と内声に全く埋もれてしまいます。曲の始まりから曲の終わりまで、同じ音量、同じテクニック、抑揚もなく弾いてしまったら、本当は小説や戯曲、お芝居のように色々な情景や色彩のあるはずの一曲の音楽が、全くつまらない、機械でもできる演奏になってしまう訳です。そして美しい音楽を却って難解にしてしまい、聴衆はその難解な音楽に感動することもなく(但し指が良く動く、難解な曲をよく弾けるものだと驚くのかもしれませんが)何だかわからないカオスの中で翻弄されながら演奏が終わるわけです。つまりメロディにかぶるくらい大きい音を出していた伴奏と内声が無駄だったわけです。全くそのような演奏を聴かされる方はたまったものではありません。そこでその大きさを弾き分ける技術というものが必要になるわけです。無駄をしている事に気づくための知識と感性、そしてその無駄を取り去るための技術を学ぶという事が良い演奏家への第一歩と言えるでしょう。

 

ただし良い技術を持っても、良い演奏ができてもまだ真の芸術家とは言えません。ドイツのエッセンで学んでいた時に、教授から『君はただのピアノの試験を受けるのではないのだよ。芸術としてのピアノの試験を受けるのだよ。』とレッスンで言われたことがありました。確かにただ譜面を覚えて、その曲を間違えなく弾いたとしても、それで終わりではない、芸術家としての感性・正しい解釈を持って曲を弾くのでなければ何の意味もないという事を仰ったのだと思います。日々ピアノを弾いているときも弾いていない時も、常に何処かでピアノの事や音楽の事を考え、できないことをできるように工夫し、試行錯誤し、時には以前の技術は捨て去り、自分の持っている肉体と音楽性と心と頭で一生を懸けて向かい合い、常に進化し続ける事。自分の内面と向き合い、外部から受ける全ての刺激を全て自分の音楽にしていく。薄っぺらではないという事です。内からほとばしり出る情熱を正しい解釈と正しい技術を持って演奏する事ができるようになって、初めて真の芸術家と言えるでしょう。世の中には同じ曲を奏するのでも、誤った価値観を持って、自分のエネルギーに任せて演奏している例が少なくありません。自称巨匠?という人も存在しています。本当にお恥ずかしい話です。

 

どんな巨匠も幼い時は誰もが感心する達者なピアニストであったでしょう。しかし幼い時にいくら達者なピアニストであっても将来必ずしも巨匠になるとは限りません。『天才も成人すればただの人』というケースもあるからです。自分が経験する喜怒哀楽全てを糧にして、音楽に没頭していく。それも正しい目を持って肉体的にも精神的にも音楽の本質へ近づこうとする努力を惜しまない人のみが、到達しうる高みなのです。

(2019/08/04)

 

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