晴子の庭 Haruko's Garden

ここでは今まで私が勉強してきた事、経験した事、日頃感じている事を 載せています。植原晴子がどんなピアニストなのか、これをご覧になると 少しご理解をいただけるかもしれません。

 

響き

 

一般的に西洋人と東洋人のピアノ演奏とはどこが違うのでしょうか?演奏する側からの違いは、脱力か否か、フレーズの違い、リズムの取り方の違い、拍子の違い、体の使い方の違いと言ったところでしょうか。聴く側からの違いで決定的な違いは、やはり音の響き、響きが有るか無いかという事に尽きると思います。『響き』というとどんな音でも響きがあるじゃないかと仰る方も多いと思います。はい、それも多少の響きはあるでしょう。しかし豊かな響きという点ではどうでしょうか?

 

私が響きという事を本当に意識したのは、大学を卒業した年の夏、フランスへ1か月の講習に行った時の事でした。パリに1週間とポワティエという田舎町に3週間という日程でした。パリではエコール・ノルマル(私立音楽院)で学長をしていらしたフランスの巨匠ヴラド・ペルルミュテール先生によるレッスンを受けました。その際に他の生徒(日本人)のレッスンで、生徒が演奏した後に先生がほんの少し演奏されたピアノの音と言ったらバーッと会場にいる自分の上を覆うくらいの音の響きがありました。これは一体何だろうと思いました。その後場所を変えての講習はマルセイユ音楽院の学長をしていらしたこちらも巨匠ピエール・バルビゼ先生のレッスンでした。レッスンの後発表コンサートがあり、受講生たちが演奏しました。フランスということもあり、ラヴェルやドビュッシーなどフランスものが多く、結構長い演奏時間でした。しかしベートーヴェンやバッハにくらべて、近現代の音楽は、音色が全てだと感じます。絵画で言えば印象派の時代です。音楽も様式を重視するのではなく、印象的に音をちりばめたような音楽が多いので、音色があまり良くなければ美しさを損なってしまうのです。時間が長く感じられ、早く終わってくれることを願う場面もありました。因みに私はショパンのエチュードを何曲か弾きました。ある日バルビゼ先生のレッスンを受けようと会場になっていたヘンリー4世の教会へ行きました。少し時間が早かったのですが、何とそこでバルビゼ先生が演奏旅行で弾かれる曲をリハーサルなさっていました。教会の会場全体を包み込む響き!その音の美しい事!ああこうでなければピアノを演奏してはいけないのだと圧倒された瞬間でした。

 

その3年後、室井摩耶子先生の元でドイツへ留学する為に勉強し、ドイツでも恩師のマクスザイン先生に響きの無い私の演奏に対して、頭から湯気を出すように指導してくださったお陰で、ほんの少し響くようになり、帰国後は響きのある演奏とそうでない演奏を聴き比べるという事をするようになりました。もちろん響いていても退屈な演奏もあれば、響きが無くても心のこもった演奏もあります。しかしそれに響きが加わればどんなに素晴らしい事でしょう。一つの曲でも響きがないばかりにぶつ切れになってしまったり、有名なフレーズの部分は聞こえてもそれ以外の部分は聞こえず混沌とした演奏になってしまったりと、聴いていて首を傾げたくなるような演奏があります。

 

『響き』、それは東洋人の私たちにとって、テクニックとして学ばなければ決して得ることのできないものです。これはピアノなどの鍵盤楽器だけではなく、ヴァイオリンやチェロなどの弦楽器、打楽器、管楽器にも言えることでしょう。『響き』を得る技術を日本の音大でも教える時代が来るようになることを切に願っております。

 

(2019/10/26)

 

巨匠とは

 

すべて偉大なものは単純である」、ドイツの指揮者フルトヴェングラーは自身の著書『音と言葉』の中でこの箴言についてこう語っています。『この箴言は芸術家の為のものである』と。ここに全ての答えが要約されているのではないでしょうか。この『単純』という事は、複雑多岐にわたる芸術作品を全体から見渡した場合、すべてを見通し、正しく全体をつかむことができるという事です。巨匠にはその単純化する才能が生まれつき備わっているのだと言えます。別の言葉に置き換えるならば、『スケールが大きい 』とも言えるでしょう。身体的能力、たゆまない努力、並外れた音楽性など、巨匠になるための資質をあげたらきりがありません。

 

一口にクラシックの音楽家と言ってもこの世には無数のレベルが存在していることは、『耳』でも述べた通りです。このことは芸術全般に関わらず、スポーツ、他の様々な分野においても言える事ではないでしょうか。なぜ無数のレベルが存在するのでしょう?『無駄なものを廃し、単純化する作業』。その『無駄なもの』が消えていない演奏が無数にあるという事です。例えば、ポリフォニー=多声音楽ーなのに全部の声部を同じ音量で弾いてしまう。そうするとメロディーは伴奏と内声に全く埋もれてしまいます。曲の始まりから曲の終わりまで、同じ音量、同じテクニック、抑揚もなく弾いてしまったら、本当は小説や戯曲、お芝居のように色々な情景や色彩のあるはずの一曲の音楽が、全くつまらない、機械でもできる演奏になってしまう訳です。そして美しい音楽を却って難解にしてしまい、聴衆はその難解な音楽に感動することもなく(但し指が良く動く、難解な曲をよく弾けるものだと驚くのかもしれませんが)何だかわからないカオスの中で翻弄されながら演奏が終わるわけです。つまりメロディにかぶるくらい大きい音を出していた伴奏と内声が無駄だったわけです。全くそのような演奏を聴かされる方はたまったものではありません。そこでその大きさを弾き分ける技術というものが必要になるわけです。無駄をしている事に気づくための知識と感性、そしてその無駄を取り去るための技術を学ぶという事が良い演奏家への第一歩と言えるでしょう。

 

ただし良い技術を持っても、良い演奏ができてもまだ真の芸術家とは言えません。ドイツのエッセンで学んでいた時に、教授から『君はただのピアノの試験を受けるのではないのだよ。芸術としてのピアノの試験を受けるのだよ。』とレッスンで言われたことがありました。確かにただ譜面を覚えて、その曲を間違えなく弾いたとしても、それで終わりではない、芸術家としての感性・正しい解釈を持って曲を弾くのでなければ何の意味もないという事を仰ったのだと思います。日々ピアノを弾いているときも弾いていない時も、常に何処かでピアノの事や音楽の事を考え、できないことをできるように工夫し、試行錯誤し、時には以前の技術は捨て去り、自分の持っている肉体と音楽性と心と頭で一生を懸けて向かい合い、常に進化し続ける事。自分の内面と向き合い、外部から受ける全ての刺激を全て自分の音楽にしていく。薄っぺらではないという事です。内からほとばしり出る情熱を正しい解釈と正しい技術を持って演奏する事ができるようになって、初めて真の芸術家と言えるでしょう。世の中には同じ曲を奏するのでも、誤った価値観を持って、自分のエネルギーに任せて演奏している例が少なくありません。自称巨匠?という人も存在しています。本当にお恥ずかしい話です。

 

どんな巨匠も幼い時は誰もが感心する達者なピアニストであったでしょう。しかし幼い時にいくら達者なピアニストであても将来必ずしも巨匠になるとは限りません。『天才も成人すればただの人』というケースもあるからです。自分が経験する喜怒哀楽全てを糧にして、音楽に没頭していく。それも正しい目を持って肉体的にも精神的にも音楽の本質へ近づこうとする努力を惜しまない人のみが、到達しうる高みなのです。

(2019/08/04)

 

クニックとは 2

 

高校までの奏法は、楽譜に載っている音を間違えずにリズムを正しく弾く、強弱を楽譜通りに付けるという正しい弾き方?をしていました。確かに書いてある音符を正しく読んで正しい指使いで弾くという事は大切なことです。しかしそれはピアノを演奏するという事のほんの初歩的段階に過ぎません。その事を知ったのはなんと4歳でピアノを始めてから14年も経った大学生になってからでした。

 

それまでのレッスンでは、新しい曲を正しく譜読みして、それを正しく弾くために何度も弾き、暗譜して弾く。著名なピアニストの演奏をレコードなどで聴き、歌ったり柔らかく弾いたりと音楽性も入れて弾いていました。また音中・音高でもソルフェージュやリトミック、合唱などで嫌でも新しい譜面を見なければならない環境にいましたので、その中で多感な思春期を迎え、エネルギーも余りある中で、音楽へ対する情熱は膨らんでおり、自分の持ってる限りのエネルギーをぶつけてピアノを弾いておりました。その中で最大限に弾ければそれで仕上がったという事になった訳です。

 

しかしそれだけでは本物の演奏=巨匠の演奏には完全に何か足りない気がして、音大へ通いながら大学以外の先生のレッスンを受けに毎週通うようになりました。そこでショパンのエチュードやバラード、スケルツォからバッハ、ベートーヴェンまで練習する中で、脱力という事、自分の音を聴くという事、手首の役割、音のバランスについて、又は曲の構造の正しい理解と表現についてそれまで何も考えて来なかった、全くの無知だったという事を知ったわけです。

 

例えば脱力に関して言えば、腕だけではなく、手や指、手首に異常な力が入っていて、ショパンのエチュードを弾く上で、完全に力を抜かなければ到底正確なテクニックというものを得られるわけはないという事を知り、コルトー(フランスを代表するピアノ界の巨匠 1877-1962)の奏法を実践しました。お恥ずかしい話それまでどう母に注意されても直せなかったお箸がバッテンになる癖がようやく直ったのも、指の力の抜けたせいでしょう。

 

また音を聴くという事は、ピアノを弾きながら漠然と耳に入ってくる音の事ではなく、自分が今出した音を本当に聴くという事だという事を教わりました。

 

よく中学生や高校生の演奏でも、あるピアニストの演奏をお手本に聴いて、曲の解釈は皆無で自分のいいなと思うところだけを真似してしまっていて、全く別物になっていることがあります。耳だけで聴いて上っ面で弾いてしまっているのでしょう。

 

そんな無数のレベルの演奏がカオスのようにこの世の中には溢れています。

一人でも多くの方が正確な演奏を理解されることを願っております。

(2019/7/1)

 

テクニックとは

 

日本でこの人はテクニックがあるピアニストという表現をすると、とにかく速く弾けて指が良く回る、難しい曲をこともなげに弾けるという意味で使われています。しかしテクニックとは本当にそれだけのものでしょうか?私自身高校生くらいまではテクニックとはガンガン高速でピアノが弾けることだと思っていました。出ている音はお構いなしに。正に耳が無かった時代と言えるでしょう。大学に入ると同時にショパンコンクールから帰国されたばかりの稲川佳奈子先生にショパンのエチュードを中心にレッスンをしていただくようになり、それまでの奏法が如何に力任せに打鍵し、まるで指と手と腕が一体化したような使い方をしていて、ピアニシモや音のバランスについて何も理解していなかったのだという事を初めて知りました。それ以来それまでの何も考えずに弾いていた奏法から、考える奏法に変えてからは、手・指・手首・腕の使い方、正しい打鍵方法、正しい拍子の取り方、歌い方などすべての事がテクニックだと思うようになりました。一つのフレーズを弾くのでも、いくつものテクニックを同時に使わなければなりません。その中の一つでも欠けたら本物の奏法では無くなるのです。音楽性やリズム感はその人の持っている感性ですから教えられることではありませんが、テクニックは教わって努力すれば得られるようになります。その機会を得るチャンスを見逃さないでいただきたいと思っています。                                                                  

(2019/3/29)

響き Klang

 

明治の西洋音楽事始めから日本における西洋音楽教育が始まって以来130年余り、世界の何処にいても瞬時に情報が飛び交う現代になり器用に演奏する人は多くなる中、

依然として西洋人の持つ響きや技術を持った東洋人は数えるほどしかいません。大学時代から自分の体を通して実践してきたことを日頃門下生たちにも伝えていますので、多かれ少なかれ西洋人と東洋人の違いに気づきそれぞれ努力していることでしょう。そのような耳を持つ門下生が増えること、そしてそんな私たちの演奏に耳を傾けてくださる方々が少しずつでも増えていきますことを願ってやみません。

                                                     

                                                                (2017/8/20)

リサイタルに寄せて

 

ラフマニノフの前奏曲とエレジーは5曲からなる『幻想小品集』として作曲されたもので、単独で演奏されることの多い2曲でもある。前奏曲はグレムリン宮殿の鐘の音を模して作曲されたと言われ、俗に『鐘』と呼ばれるようになった。当時大変流行ったらしい。19歳の青年が書いたとは思えないロシア的な壮大さと哀愁を帯びた曲である。

 

ベートーヴェンのソナタ『月光』と『テンペスト』という題名はベートーヴェン自身によるものではない。諸説色々あるが、いずれにしてもタイトルを付けられるくらい名曲なのだという事だと思う。私にとってもベートーヴェンは大変思い出深い。小学生のころ『悲愴・月光・熱情』という3大ソナタのLPを巨匠ケンプの演奏で聴き、血が燃え滾るような興奮を覚えた。それ以来ベートーヴェンは私の最も好きな作曲家になった。まだ技術は無かったが、解釈だけは間違えていないと言われたりした。

 

『テンペスト』はドイツ留学を控え大学院入試のために用意した曲目の1つだった。ケンプの弟子でもある室井摩耶子先生にレッスンしていただけたのは、本当に何というご縁であったことか・・・。しかしながら音の出し方から指の動かし方まですべてゼロにするレッスンで、冒頭の3,4小節だけで1時間のレッスンが終わってしまうこともざらだった。良く『どうしてここでクレシェンドと書いてあるのかしら?どうしてここでアクセントが付いているのかしら?』と質問されたが、なかなかうまく答えられなかった。ただ楽譜に書いてあるからフォルテで弾く、クレシェンドを付けるという事をひたすら疑わずやってきたそれまでの弾き方とは全く異なるものであった。深く探れば探るほど、ソナタはまるで長編小説やお芝居のような物語があるという事を知った。そのような曲を書けた作曲家たちは、正に神の啓示を受けたとしか言いようがない。

 

その後ドイツでマクスザイン先生から『作曲家を尊敬はしても畏怖の念は抱くな!自分自身の音楽を奏でなさい!』と言われた。東洋と西洋の奏法の違いをあっちにぶつかりこっちにぶつかり、偉大な作曲家の作品に押しつぶされそうになりながら歳月が流れた。しかし最近思う事は、その奥深く難解な曲を私達演奏家は難しく弾くのではなく、できるだけわかりやすく単純に演奏するという作業をひたすらやっているのだという事。そしてできるだけ自然な動きに近づくために色々なテクニックを日々練習しているのだという事である。

                                                                                                                                                               (2016/6/5)

 

耳2 

 

ピアノを習い始めたのは4つの時だった。何か習い事をさせようと思った母が私の短い指をした手を見て、昔音楽の先生がお世辞にも格好の良いとは言えない手をした男の子に『あなたピアノを弾いたらうまくなるのに』と言っていたのを思い出して、ピアノを弾かせてみようかなと思ったそうである。それから街の音楽教室に通い始めたのだが、当たり前の話、子供一人でピアノを練習するわけはなく、先生のところへは週1度丸をもらいに行くだけで、レッスン時間はものの5分だったため、それ以外の日は母が私をピアノの前に座らせ、根気強く譜面を手で指差しながら、全体を一度も間違えずに弾けるようになるまで、何度も弾かせた。また母が『こういう風に弾いてごらんなさい』と歌ってみせると次第にピアノが歌うようになったという。非音楽的な演奏では満足できなかったらしい。 その母の根気強さと耳の良さが無かったら、ただ弾くだけ、音を出すだけの音楽的ではない弾き方をするようになっていたかも知れない。母は実際にピアノは弾けないが、元々クラシック音楽やタンゴ、ジャズなど音楽が大好きで、よく聴いていたようである。私も小さい頃その音楽が流れるスピーカーの側で昼寝をしていた。絵を描いている母の隣で音楽が流れ、とても幸福な気分で眠っていたのを覚えている。

 

人間の感受性というものは、3歳までに決まるらしい。よくその頃庭で泥んこになって遊ぶのが得意だった。ベートーヴェンを弾いていると不思議とその頃に感じていたものと同じものを感じる事がある。何だかとても落ち着くのである。

 

私のピアノの成長とともに、母の耳も同じように進化を遂げている。最近は音が響くか響かないかが良くわかるようになっている。本当に聴くという事はすごい事である。前にも述べたが、ピアノを演奏している人の耳には様々なレベルがあると思う。それは自分の演奏の技術に比例して耳が成長するためである。一流の演奏は理解できるが、それと自分の技術との間の領域に関しては耳がついていってはいないのである。この様々な耳を持って、意地悪く批評する人達がいるので困る。

 

しかし専門家にとっては、色々なレベル分けができる耳が必要であるが、音楽を聴くという事は、ただ心で聴くというか素直な気持ちで聴いて、『いいなあ』と思えば良いのである。素晴らしい演奏はほとんどの人がその好みとは別に判るものだからである。

                                  (2010/6/28)

 

室井先生のレッスン

 

室井摩耶子先生のお宅へ伺ったのは1990年秋の事だった。ドイツへ留学したいと考えていたところ丁度音楽雑誌の編集の仕事をしていた友人が『先日室井先生のお宅へ取材に行った』というのを聴き以前からベートーヴェン弾きとして有名な先生に是非レッスンをお願いしたいとその友人を通じて紹介していただいた。先生にお会いする前に丁度書店で見つけたご著書『ピアニストへの道』を読んだ。その中で、5年間の留学体験や西洋人と東洋人の弾き方の違い、音の大きさではなく響きの問題について触れた記述があった。いったいどういうことなのだろうと少なからず興味を覚えた。ショパンのエチュードを一応マスターしているのだから、指の基礎はできているとは思っていたが、まだ何かが足りないと感じていた頃であった。最初のレッスンでベートーヴェンのピアノソナタ“テンペスト”とバッハの半音階的幻想曲とフーガを緊張しながら弾いたのであるが、それに対し室井先生は『そういう風にお弾きになるの!まず音の出し方ABCからみっちりやらなければね!毎週いらっしゃい!』・・・というわけで帰り道私は頭をガーンと殴られたような・・・また一からやり直しなんていったいいつになったら基礎ができあがるのだろう・・・と体が重くなっていた・・・

それからのレッスンはと言えば、ベートーヴェンの一音一音についての解釈の仕方や音の出し方のABCを、それまでの技術や個性を一度真っ新にしてみっちりそしてそれはそれは厳しくご指導いただいた。ピアノの技術というものは単に指を動かすだけでなく頭も使わなければならない・・・しかし肉体がそれにともなわなければならず、頭でわかってから実際に指を動かせるようになるまでに時間が掛かる。3ヶ月経った頃、ようやく留学のためのデモテープを作る事ができた。また留学のために必要な紹介状を日本語とドイツ語で室井先生に書いていただくことができ、その中で『長足の進歩』というお褒めの言葉をいただいた。その後留学までの数ヶ月の間、引き続きレッスンをしていただき、ドイツでの入学試験に備える事ができた。留学直前、最後のレッスンの時に室井先生は『これで何とか試験を受けられるでしょう。但し音が響くまでは5年は掛かるでしょうね。ドイツの先生には最初のうち2,3回はその事を言われるでしょうけど、わからないと思ったらそのうち言われなくなるからね。しっかりおやりなさい!』と仰った。

室井先生のレッスンで、フレーズの歌い方や拍の取り方などの西洋と東洋の違いを学ぶ事ができた。ここまで親身になって温かくご指導いただけたという事は本物のピアノの技術を学ぶ上で本当に幸運だったと思っている。

                                                                   (2007/7/9)

 

 

人間は皆耳を持っているのだが、音楽を聴く耳となると種種様々である。その聴く人によって色々なレベルがある。大まかに言えば、音楽愛好家でもクラシックが好きな人、ジャズやタンゴ、民謡や演歌しか聴かない人、オールマイティに何でも聴く人など、その人の趣味によって全く違う。

ここではクラシックを聴く耳についてお話しする。クラシック愛好家は、大抵海外の一流の音楽を聴いているので、すごく上手い演奏とそうでない演奏を聞き分ける事ができる。それは、巨匠の絵画や国宝級の美術品を見て目を養うのと同じである。しかし、一流の演奏とそうでない演奏の間には、何十、いや何百ものレベルがあって、クラシック愛好家と言えども、そのレベルを的確に聞き分けるというのは、至難の業だと思う。もうあとはその人の好みーつまり主観ーによって、その演奏の善し悪しを決めるしかないのである。私自身の耳はと言えば、幼い頃やはり巨匠と言われる演奏家の演奏を聴きすごく上手い演奏と全くそうでない演奏を聞き分けられるくらいだったが、一方でピアノを練習し少しずつ技術が進歩するに従って耳も成長して来た。例えばショパンのエチュードの手首の使い方や、呼吸の取り方がマスターできたとすると、それまで巨匠の弾くショパンのエチュードが漠然と聞こえていたものが、巨匠自身がその技術が的確にできている事を聞き分けられるようになるといった具合である。そうすると今度は他の人がその技術ができているかいないかが、自然に判るようになるのだ。

そんな耳がどうして必要なのか?

今日本では、海外の一流の演奏家と日本の演奏家が同等のように扱われているが、海外の演奏家と日本の大部分の演奏家では技術的にかなりの差がある。そこを聞き分けられる耳を是非一人一人が持っていただきたい。西洋人と日本人の技術の差・・・これについては、またの機会にお話ししたいと思う。

一番良いのはやはり一流の演奏技術を学ぶ事かもしれない・・・。

                                      (2007/6/23) 

 

ショパン・エチュードの思い出

 

それまでの実技中心の音中・音高の音楽教育とは打って変わって、音楽大学では学問としての音楽と一般教養の講義に通う毎日だった。その一方毎週稲川佳奈子先生のレッスンを受けに六本木のお宅まで通っていた時の事である。先生は当時まだ20代でショパン・コンクールに日本代表として出場した直後で、腰まである長い髪と端正な顔立ちが印象的だった。『とにかく遠藤先生から教わった事をお伝えするだけ』と惜しまず毎週毎週熱心に教えて下さった。その時教えていただいたのが、主にショパンを中心としたバッハやベートーヴェンの作品だった。中でもショパンのエチュードでは、それぞれの曲の具体的な弾き方、-フレーズの取り方や、呼吸・指、手首の力の抜き方、使い方、ショパン特有の歌いまわしなど、コルトー継承の技術を集中的に教えていただき、必死でマスターするため練習をした。『今の弾き方をしていたら、一生ショパンは弾けない!』と遠藤先生から言われていたのでとにかく本物に近づきたくて頑張った・・・まだ体全体の力は抜けてはいなかったが・・・その4年間の濃縮したレッスンがなければ、西洋音楽の指の基礎はできなかったと思う。そして遠藤先生や稲川先生に教えていただかなかったら、一生本物のショパンには出会えなかったと思う。その教えていただいたテクニックがベートーヴェンやバッハを弾くにしてもまたロマン派以降の作品を弾くにしても役立っているのは言うまでも無い。友人の1人に『もっとピアノがうまくなりたいのだけれど、ショパンのエチュードっていいのかな?』と訊かれたので『すごくいいと思う。』と答えてしまったが、『きちんとしたテクニックで弾けば』と言うのを忘れてしまった。そのあとその人は全曲弾いたようだが、正しいテクニックを用いてではなかったのであまり指の基礎にはならなかったような気がする。その頃も今も音大やコンクール出身の方がショパンの作品をエチュードに限らず弾いているが、きちんとしたテクニックで弾いているのを日本にいて聴いたことがない。そのテクニックがなくても最後まで弾くには弾ける。それで良しとするか、それとも・・・・                   

                                     (2007/6/22)

                                                                                                            

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